おすすめポイント
大宰府は、7世紀後半に筑前国に設置されていた地方行政機関の名前であり、これがこのまま地名となりました。『日本書紀』にはすでに、「大宰府」の名が確認されます。
宰府は、地方行政上に重要とされた地域に置かれた役職です。
今でいうところの地方行政長官です。
大宝律令以前には吉備大宰や周防総令、伊予総領などにもおかれていましたが、大宝令の施行で廃止され、大宰だけが残されることになりました。
これによって「太宰府」と言えば、九州の太宰府を示していると認識されるようになったのです。
「太宰府」とも「大宰府」とも書かれたものを目にすることがありますが、これには「大宰府」と書かれる時には歴史上の役所を指し、「太宰府」と書かれると国は行政上地名等に使われるといった区別があります。
古代北九州王朝の倭京が太宰府にあったとする九州王朝説は、太宰府の古のロマンを感じさせる説ですが、科学的な根拠が示されていないと指摘する専門家も多く、「俗説の域を出ない」とされています。
特別史跡に指定された水城跡や都府楼跡などを探索すると、安全保障上重要な位置にあったことは言うまでもなく、アジアの窓口となっている現在と照らし合わせ、九州王朝説が許される雰囲気をたずさえています。
グルメ情報
小豆あんを餅の薄生地でくるんで焼き上げた梅ヶ枝餅が、大変有名です。小さな梅の刻印が真中に押されています。
菅原道真公の逸話がその名の由来となっています。
菅原道真に餅を売っていた老婆が「元気を出して」と手渡したことから道真の好物となり、道真の死後にその老婆が餅に梅の枝を添えてお供えした墓前に供えたといった逸話も、軟禁されていた道真公が食事もろくに与えられていないかった様を老婆が見かね、梅の枝に差して餅を差し入れた逸話もあり諸説あるものの、道真公が所以となっていることは共通しています。
昔は焼きみそや味噌餡をくるんだ「スナック」のようなものでしたが、砂糖が手に入りやすい時代になってから小豆あんが使われるようになりました。
参道では様々なお店が梅ヶ枝餅を販売していますが、それぞれの味には特徴があり、通えば「お気に入り」の梅ヶ枝餅が見つかります。
また参道の店は受験生がゲンを担げるようなメニューを提供しているものも多く、「かつ」を中心とした「合格弁当」や合格の文字が焼き入れられた具などが入ったうどんも人気があります。
もともと麺が太く、小アジや昆布だしの「さいふうどん」が明治から昭和にかけて太宰府の名物だったこともあり、多くのお店で「さいふうどん」を見かけることができます。
観光地の見どころランキング・1位
学問の神様として知られる菅原道真公を祭神として祀る天満宮の一つである太宰府天満宮は、毎年初詣の際には00万人以上の参詣者が押し寄せます。道真公が京を旅立つ時に歌った「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」は有名ですが、その「飛梅」は拝殿の右手に立っています。
世阿弥の能楽「老松」の舞台としても有名で、道真が京から左遷された折、京から飛んできたとされるこの飛梅の逸話が題材になっています。
さだまさし氏の楽曲である「飛梅」も、太宰府天満宮の「飛梅」を指しており、この楽曲によって心字池にかかる、太鼓橋・平橋・太鼓橋を知ったという人も少なくありません。
この橋は、仏教思想でいうところの三世一念いわゆる過去・現在・未来を表わしています。
この橋を渡れば、心身ともに清められると言い伝えられています。
ちなみに太宰府天満宮のお神酒は梅酒です。
観光地の見どころランキング・2位
用地を太宰府天満宮が寄付して作られたのが九州国立博物館です。2005年10月16日に開館しました。
東京・京都・奈良にある3つの国立博物館は100年の歴史を持ち、美術系博物館としてしられていますが、九州国立博物館は歴史系博物館として作られました。
九州は、日本の歴史において、いつの時代もアジアの国々との文化の交流を図る上で、重要な窓口となっていました。
そういった背景によって九州国立博物館の基本的な理念を、日本の文化形成の足跡をアジア史的な観点からみるとしています。
展示は旧石器時代から開国した近世末期までの流れの中にある文化を中心に展示しています。
アジア各地の民族美術なども展示され、インターナショナルな雰囲気もあります、美術評論家として名高い岡倉天心は100年も昔に九州に国立級の美術館や博物館が設置されることの必要性を説いていましたが、ようやくそれが実った格好になります。
観光地の見どころランキング・3位
博多祇園山笠の生みの親として語り継がれている円爾の門下にあった鉄牛円心が建立し、開山されたとされているのが光明禅寺 です。太宰府天満宮に続く参道の一の鳥居を右に曲がれば、山門と鐘楼が突き当りに見えてきます。
光明禅寺は庭園は碧く苔がむし、別名「苔寺」とも呼ばれています。
七・五・三の十五石で光の字に配石された仏光石庭が前庭、青苔は大陸と島に見立てられ、白砂を水と大海に模している枯山水の「一滴之海庭」と呼ばれる庭は、この寺の裏庭になります。
長汀曲浦の線で描きだされ、大変見事です。
秋の季節には、紅葉の風情にまた、人が立ち寄ります。
江戸時代の1616年に、太宰府天満宮に使える天満宮に仕える人とその家族である緇素の菩提寺として再興されました。
天満宮の結縁寺です。
まとめ
博多祇園山笠の生みの親として語り継がれている円爾の門下にあった鉄牛円心が建立し、開山されたとされているのが光明禅寺 です。太宰府天満宮に続く参道の一の鳥居を右に曲がれば、山門と鐘楼が突き当りに見えてきます。
光明禅寺は庭園は碧く苔がむし、別名「苔寺」とも呼ばれています。
七・五・三の十五石で光の字に配石された仏光石庭が前庭、青苔は大陸と島に見立てられ、白砂を水と大海に模している枯山水の「一滴之海庭」と呼ばれる庭は、この寺の裏庭になります。
長汀曲浦の線で描きだされ、大変見事です。
秋の季節には、紅葉の風情にまた、人が立ち寄ります。
江戸時代の1616年に、太宰府天満宮に使える天満宮に仕える人とその家族である緇素の菩提寺として再興されました。
天満宮の結縁寺です。