おすすめポイント
鹿児島薩摩藩は、江戸時代には薩摩・大隅の2か国と日向国諸県郡の大部分を領土としていました。外様大名であるにもかかわらず、琉球王国までも支配下に置き、最高石高は90万石もありました。
これは加賀藩に次ぐ大藩です。
西郷隆盛や大久保利通といった有力政治家が出ている土地としても有名で、藩閥政治においては長州藩とともに、「薩摩閥」と呼ばれるほどの政治に対する大きな影響力を持っていました。
県内各地に武士文化を今に伝える建造物や街並みが多く残っており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、その反面 国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構の施設といった超近代的なものもあり、新旧がうまく共存している土地でもあります。
もともと独自の政治や教育などを開発し、それを実践してゆくといったイマジネーション豊かな藩です。
「薩摩隼人」といった言葉がありますが、これは古代日本で薩摩・大隅に移住した人々のことを指しています。
隼のような人という意味をもち、反骨精神が旺盛な人でありながら、厚い忠義の心も持つといった印象を歴史の中でも持つことができます。
考古学的にも注目される土地で、文化の違いも垣間見ることができる史跡などが残されています。
グルメ情報
さつま揚げは、島津藩が治めていた頃より、良く食されていた料理です。鹿児島において今では「名産品」となっていますが、昔から愛されている「伝統料理」の一つと言えるでしょう。
さつま揚げは鹿児島で「さつま揚げ」と言われることは少なく、「つけあげ」と呼びます。
「つけあげ」は島津斉彬公の時代に琉球から渡って来たと言われています。
琉球では魚のすり身を油で揚げたものを「チキアーギ」と呼び、「つけあげ」になったのではないかとされています。
さつま揚げは、この地で水揚げされるツムブリやシイラといった魚のすり身を使っていました。
そこに地酒と豆腐を混ぜ合わせて、油で揚げます。
今もその製法を守り続けている店も多く、変わらぬ味を楽しむことができます。
鹿児島薩摩のグルメには、「白熊」も忘れてはなりません。
戦後間もないころは、白蜜や赤蜜をかけただけのシンプルなかき氷ばかりでした。
それをとある店主は練乳をかけてみたところ大変おいしかったというのが始まりです。
それから甘さに調節を加え、チェリー、アンゼリカ、干しぶどうなどを洋菓子感覚でトッピングしました。
それを上から見た時に、白熊の顔のように見えたことから、この名がついたとのこと。
これが昭和22年のことでした。
冬でも小さめのかき氷が販売されるなど、年間を通じて楽しむことができます。
観光地の見どころランキング・1位
が異常制度とは、鹿児島藩の独特な行政制度のひとつです。外城はのちに郷と呼ばれるようになりますが、藩主のいる内城を外から護衛する城という意味です。
家臣である武士に農地を与え、そこで自活させていました。
もし外敵が押し寄せてくるといった戦などの一大事がきれば、地域の武士は軍団となって防衛にあたったのです。
これは1587年の豊臣秀吉による出陣によって領土を封じられてしまった反省によるものです。
領主であった島津氏は、完璧な領土固めによって、他から侵略されない国作りをしようと、薩摩や大隅、そのほかの辺境の地に対する警戒に尽力しました。
江戸時代になっても領土増えなかった島津藩は、このままでは家臣たちを養うことができないと悟り、外城制度によって自活させるといった目的もありました。
関ヶ原の戦いの2年後になる1602年に薩摩藩本城である鶴丸城が築かれましたが、大変質素でなもので、外城と合わせて巨城となす外城制度の考え方には変わりがありませんでした。
観光地の見どころランキング・2位
鹿児島薩摩藩は外城制度によって、領地113の行政区画に分け、統治していました。よって家臣である武士たちは、本城に集まらず、領地内に分散していました。
それぞれの場所で統治していましたが、これは麓と呼ばれていました。
知覧武家屋敷群はこのような薩摩藩麓の一つです。
侍町の町並みが良く保存され、重要伝統的建造物群保存地区(武家町)として国の文化庁に選定されました。
このほか入来麓は出水麓などの武家屋敷群も剪定を受けています。
知覧麓は「薩摩の小京都」とも呼ばれ、特に風情を感じさせます。
石垣や生け垣など、武家屋敷が立ち並ぶ当時を今に偲ばせるものが残っています。
第十六代佐多久達は薩摩藩において最も重要な役目を担い、島津姓の使用と私領地化が許された人物ですが、ここでは城塁型の区画が作られています。
名勝指定を受けている7つの庭園にも「佐多」の名を確認することができます。
観光地の見どころランキング・3位
郷中教育とは、薩摩藩伝統の縦割り教育です。郷中とは、薩摩藩の特有の「郷」のことで、『方限』によって区割りされていました。
それぞれが自治組織として機能していましたが、鹿児島の城下には数10戸を1として、当初は18程度の数でしたが、幕末の頃には33になりました。
ここでの武士階級の教育法が郷中教育です。
島津忠良が作りあげた47首からなる「日新公いろは歌」や、新納忠元が完成させた「二才咄格式定目」を中心に、教育が進められました。
武家の青少年を小稚児(6歳から10歳)長稚児(11歳から15歳)二才(15歳から25歳)長老(すでに妻をもった先輩)の4つに編成し、それぞれの中で「頭」を選び、頭は監督者として郷中での生活における一切の責任を負いました。
郷中の構成人は、「舎」に集っては、武術や学問に勤しんだのです。
この一連のシステムを、郷中教育と呼びます。
まとめ
郷中教育とは、薩摩藩伝統の縦割り教育です。郷中とは、薩摩藩の特有の「郷」のことで、『方限』によって区割りされていました。
それぞれが自治組織として機能していましたが、鹿児島の城下には数10戸を1として、当初は18程度の数でしたが、幕末の頃には33になりました。
ここでの武士階級の教育法が郷中教育です。
島津忠良が作りあげた47首からなる「日新公いろは歌」や、新納忠元が完成させた「二才咄格式定目」を中心に、教育が進められました。
武家の青少年を小稚児(6歳から10歳)長稚児(11歳から15歳)二才(15歳から25歳)長老(すでに妻をもった先輩)の4つに編成し、それぞれの中で「頭」を選び、頭は監督者として郷中での生活における一切の責任を負いました。
郷中の構成人は、「舎」に集っては、武術や学問に勤しんだのです。
この一連のシステムを、郷中教育と呼びます。